郷土研究の今後の課題について

 

私の郷土史・郷土美術史の研究は「郷土美術史学」の一つの考え方を示したものである。ここで特に指摘してお

くことは郷土史や郷土の美術史研究といっても従来の一般的な郷土史研究のように地方のある限られた地域の

調査について顕微鏡的な研究の方法を取るのは勿論であるが私の場合には郷土を見る視点の高さを日本史或い

は世界史的な観点の視点と角度から見ていることである。このことは私の本を見ていただけば判る。

しかもこれで研究は終了したのかというとそうではない。これらの著書は一つの出発点を示したに過ぎず多く

のものを今後に残しているのである。具体的なテーマについていくつかその例をあげてみたい。

 

例その1、伊達政宗の「負の遺産」について

 

伊達政宗の人情話の中で備中高松城主清水宗治の遺児の長男清水景治を家臣に召抱え360石を給して着座の

斑に列して宗治の名蹟を嗣がせたことは当時の戦国時代の武将の間でも大いなる美談としてもて囃されたに違

いない。しかし同じ岡山県の人達に対する対応として例えば同県から招聘されて岩手県との県境に展開して鉄

の生産に従事した製鉄の技術者たちはキリシタンとして迫害・処刑されている。同じ備中・吉備地方の人達で

ある。これについての史実の研究は殆ど手がつけられていない。被害者としての歴史は研究されても加害者と

なった場合の歴史は抹殺されてゆく。現在の朝鮮や中国との歴史認識をめぐる争いと同じ構図である。我々は

歴史を学ぶ者として反省すべきではないだろうか。

負の遺産も遺産である。郷土キリシタン史に光を与えよう。

 

負の遺産の一例

 

天正十九年六月、葛西の一揆が発生鎮圧のため政宗が登米郡佐沼城を攻撃した時政宗は四の丸に布陣、四日か

かってやっと本丸に突入したがこの時城中の葛西の家臣、百姓、女子供まで3000余人の首をはね世に「佐沼

の撫切り事件」として有名になった大殺戮事件を引き起こした。また、同様の「撫切り事件」はその六年前の天

正十三年八月にも大内備前定綱の居城である福島県安達郡小森城を攻撃した時も行なっている。この時には男

女800人の首をはね牛馬まで生きているものはすべて殺した。

伊達成実記に「撫切と被仰出、男女不及申女房、牛馬迄切捨。一人も不残被討果候。」とある。こんな戦い方を

した武将が外にもいるのかどうか。福島では政宗の評判が悪いのはこれのせいかもしれない。

 

例その2、中世葛西氏の業績に光を

 

月輪氏は葛西氏の支族で「二ッ柏紋」を持つ武将である。1540年頃赤生津に月輪城を湖沼の岸辺に造って背

水の陣を張った。葛西氏は平泉征伐で第一位の勲功を立てた東京葛西地方出身の武将でこの勲功により源頼朝

より28万石の地行と奥州総奉行と検非違使職に任ぜられ秀吉の奥州仕置で領地を没収されるまで四百年間奥

州に君臨した名門である。南北朝の時代になって足利将軍により古川に大崎氏が赴任することにより葛西・大

崎の間に覇権をかけた争いが起こり長く続いた。ことに元亀元年(1571年)から三年に及ぶ「藤沢ノ陣」「岩ヶ

崎ノ陣」があり葛西が大崎に大勝した。この戦の続きで大崎が葛西側に先制攻撃をしかけて勝ったのがこの月

輪城の攻略である。葛西側は月輪氏を失ったことにより大規模な反攻作戦に出た。それが「遠田・南遠田ノ陣」

の始まりで大勝した葛西氏は大崎領の遠田郡田尻町、涌谷町、南郷町から六十六郷を手にいれたのである。

史上最大の版図となった葛西氏は月輪氏の菩提を弔うため大寺の建立を笑室ァ補和尚に懇請した。そうして開

山されたのが月輪山香林寺である。寺の開山に当たり月輪城の東門が寺の山門に移築された。現在宮城県重要

文化財になっている。葛西氏の栄光は奥州仕置により徹底的に破壊され歴史から抹殺されて一族郎党も徹底的

に弾圧された。そこで一首。 

 

城址・堤防より要害を望む   詠・大林夢庵

 

囘頭元亀合戦場       頭をめぐらせば元亀の合戦場

青燐飛処望蒼茫       青燐飛ぶところ蒼茫を望む

干戈旗影人無識       干戈の旗影  人の識るなく

星落山河立夕陽       星落つ山河  夕陽に立つ

 

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  月輪山香林寺山門・宮城県重要文化財指定

 

更に律詩でもう一首

 

噫! 赤生津の古戦場     詠・大林夢庵

 

来襲突如化戦場  城中告急勧離觴  来襲突如として戦場と化す 城中急を告げ離觴をすすめる

風雲旗幟翻山頂  激烈飛声江水傍  風雲の旗幟 山頂に翻り   激烈 声は飛ぶ 江水の傍ら

千馬用兵男子誉  七生報復抱剛腸  千馬 兵を用いるは男子の誉れ  七生報復の剛腸を抱く

群鴉一叫悲歌起  天地星移仰碧蒼  群鴉一叫して悲歌起こる    天地 星移り 碧蒼を仰ぐ

 

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仙台の「すずめ踊り」について・歴史を捏造するな!

 

仙台では青葉祭りや七夕祭りなど、なにかイベントがある度にここ数年の間に市民による「すずめ踊り」が行な

われるようになった。マスコミもこの踊りは400年前の政宗卿の仙台開府にともなう青葉城建築の石垣工事

完成時に石工たちが即興的に踊ったのが始まりだなどと、もっともらしい言い訳を付けており最近では「発祥

400年のすずめ踊り」などと、とんでもないポスターも出廻る始末である。しかし実体はどうなのか?

これについて一言いっておきたい。この踊りの火付け人はだれあろう、それは旧仙台一中の真山泰先生である。

先生のあだ名はトンボといったので、生徒なら皆知っている名先生である。この先生がすずめ踊りの火付人で

あったとは私も知らなかったが、真山先生の仲のよい同級生で大梅寺の星智雄老師(元仙台市博物館館長)と東

北学院大学の史学の佐々木慶市教授の三人合作の作り話であったが佐々木先生が私に直接話しをしてくれたの

でわかった次第である。佐々木先生によると三人で集った機会に七夕には大勢で動ける踊りがあったほうがよ

いのではないかという事になり、このすずめ踊りを思いつき真山先生が知り合いの石屋さんに話をしたのがき

っかけになったということである。勿論そのような史実があるわけではなくまた記録や史料が残っているわけ

でもない。三人の創作なのである。だから政宗も石工と一緒に踊ったなどということは眉唾ものであり政宗公

が人足と一緒に酒を飲んだり踊るというようなことはありえないことなのだ。真山先生の先祖は仙台藩の警察、

検察を担当した真山刑部の支族であり私にとっても恩師の一人である。これから石屋の人足踊りの意味を知ら

ない連中がはしゃぎ廻っているが将来困ったことになるのではないのか。

この三人は私のところには頻繁に来て頂いていたが三人とも物故となった。それで真相を書き残すのである。

 

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仙台藩最後の最強部隊が額兵隊である。隊長は星殉太郎。この大砲隊は洋式の部隊で砲兵隊、工兵隊、輜重隊

から成り1000名で編成された。イギリス式の大砲を持ち軍服もイギリス式で赤色、戦闘では裏返しで黒と

なるものを着用した。相馬口の戦闘に参加すべく出陣したが藩主の命令で途中から引き返し仙台から宮床に移

り覚照寺に本陣を置いて駐屯、石巻に移動して解散した。しかし武士道に生きる選択をした多くの隊員が五稜

郭に移り函館戦争に参加、最後の士魂を燃焼させ燃え尽きたのである。

 

海外旅行のお土産について

 

ソビエト時代には琥珀はロシアで買うのが一番よかったが最近ではロシアは物価があがって値段に魅力がなく

なった。

今ではバルト三国、特にリトアニアで買うのが一番よい。

ここは世界最大の砂丘からの露天掘りで産出されており品質も悪くない。市内のデパートでも売っておりとに

かく値段が安い。日本の10分の1程度か。産地にゆくと更に安いので御土産用にまとめ買いができる。

日本の琥珀業界にも大量に輸出されているのでおすすめのスポットである。

 

 

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