仙台の話題について

 

 その1 仙台市の近郊にある名取市・笠島の「蟹の恩返し伝説」で有名な蟹王山智福院をご存

知ですか。

毎年3月に蟹の供養会が行なわれていますそこで私も一首詠みました

 

      私の著書第20巻「蟹王山縁起考」を参照してください。

 

      詠笠島郷・(寄智福院)  夢庵散人

 

智福山門祭蟹王  智福の山門に蟹王を祭る

      信心不変幾星霜  信心は変わらず幾星霜

      村園十里横斜影  村園十里、横斜の影

      萬古悠々笠島郷  万古悠々たり笠島郷

 

その2 伊達政宗の人情話について・仙台藩の戦国秘話 (その3) 

 

織田信長の臣秀吉が毛利攻めを命じられて3万の大軍をもって中国進攻に向かったのは天正10年(1582)

3月であった。これを迎え討ったのが備中高松城5000の城兵と名将清水宗治であった。世に名高い秀吉の

「高松城水攻め」の戦いである。孤立無援の宗治は秀吉の和議の条件を飲んで5000の兵の命と引換えに自分

は切腹して果てた。6月4日のこと。これにより秀吉は明智光秀討伐に成功天下取りの地歩を固めることが出

来たのである。宗治の長男景治は秀吉により家臣に取立てられた。文禄の役では平壌の戦いで戦功があり感状

を受けた。徳川家康は慶長8年景治を召して7400石を与え、越前少将一白卿(忠直卿)の守役とした。

同17年失政により罷免、景治は仙台藩に預けられて幽閉の身となった。政宗公は父宗治の武士道にいたく感

激、家康公に乞うて家臣となし百人口を与えた。景治は元和3年3月仙台に卒す。年47。その子長左衛門は

わずかに9才。だが仙台藩では寛永年中三十六貫文を給し着座の班に列して高松城の名将清水家の名跡を温存

させたのである。仙台清水家の第23世広景は明治14年「宗治三百年祭」を開催した。全国の高松城関係者が

参加した。そして祭苑に寄せられた大量の献詩・献歌・献句などの資料を残している。「宮城文学資料」を参照

されたい。私はこれらの仙台清水家資料を平成13年に桃生郡雄勝町に寄贈した。そこで私も一首添えておく。

 

・・・ 高松懐古・「もののふの心を映す岩清水 雄勝の郷ぞ 永久に涌くらむ」・・・仙台夢庵

 

高松城懐古    仙台夢庵   (2004・4・17詠)

 

孤忠宗治弔幽魂   孤忠、宗治の幽魂を弔う

清鏡岡山在九原   清鏡、岡山の九原に在り

鬼哭風悲名勝負   鬼は哭き、風は悲しむ名勝負

高松一戦万年尊   高松の一戦、万年に尊し

 

備中高松城・清水宗治展・毎年6月に仙台で開催!

 

ギャラリー大林では平成16年から毎年6月に備中高松資城水攻め資料、清水宗治資料、仙台清水家知資料、

備中高松城址保興会資料をビデオ、写真、パネル、文献、古文書などの展示会を開催しております。

年中無休。拝観料無料。但し電話で予約して下さい。全国の清水家ゆかりの方々の参観歓迎。

 

その3 仙台城の石垣の修復工事が完成しました。そこで、私も七絶 一首を作りました。

 

仙台城懐古  (その一)   夢庵散人

 

荒城人去野花香    荒城人去りて 野の花香し

覇虎争龍夢一場    覇虎争龍   一場の夢

馬上英雄名不朽    馬上の英雄  名は朽ちず

図南鵬翼跡茫々    図南の鵬翼  跡茫々

 

ここで 伊達政宗の仙台開府400年に思う に切替えてみて下さい。

 

その4 名取市にもう一つ、三十六歌仙の一人實方朝臣中将の墓があります。

 

最近毎年秋になると墓の前で和歌・俳句の献歌会を始めたようです。実方は正暦5年(994年)に左近衛中将

に任ぜられた藤原一族の名門の出である。ある時東山での観桜会でのにわか雨で「桜がり雨はふりきぬ同じく

は、ぬるとも花の陰にかくれむ」と詠んだことが有名になった貴公子で源氏物語のヒロイン光源氏のモデルと

も云われた歌人である。(光源氏のモデルと云われる人は他にも何人かいる)

しかし性格は粗暴であったようで翌長徳元年には一条天皇から「歌枕みて参れ」との命により陸奥の国司に左遷

されて多賀城の国府に下行した。それから4年経って京に帰るのが近づいた頃出羽の国「阿古耶の松」を見ての

帰り道祖神の前を通ったとき村の人に誰を祭った神社なのかと聞いたところ「京都の西にある出雲街道の道祖

神の娘が駆け落ちしてこの地に来たが亡くなったのでその娘を祭ったものだ」と聞きそれでは「そんな淫乱娘を

祭った神社なら下馬する必要はない」と云って馬に乗ったまま通り過ぎようとしたら急に馬が暴れだして投げ

出されて頓死してしまった。そこで村人たちがこの中将をこの地に葬ったのがこの墓でそれは長徳4年(998

)11月13日のことであった。

 

私の著書第19巻「道祖神研究」を参照してください

 

実方・懐古     笠翁  (これも私の号です)

 

残碑黄土獨徘徊    残碑の黄土を 独り徘徊す

風雅栄枯弔古来    風雅の栄枯  古を弔って来る

漠々星霜花不語    漠々たる星  花は語らず

歌仙一将夕陽開    歌仙の一将に 夕陽開く

 

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           伊藤武陵筆 「三十六歌仙図」 のうち、小町・人麿・黒主を画く

 

宮城県図書館・危機来る

 

宮城県では大震災が発生した少し前の2月に現在泉区の県立図書館こある最重要古典籍「青柳文庫や養賢堂文

庫、伊達文庫をふくむ11万点余」を突然多賀城にある県立博物館に移転させると云う事件が発覚した。

その後有識者や文化人たちの反対意見が地元新聞などに時々掲載されており反対運動は拡大しているが私も勿

論大反対である。県の対応を注視して行きたい。

 

戊辰戦争を見直そう!  その1

 

仙台藩の戊辰戦争は「朝廷に巣食う薩摩・長州の奸賊を征伐する」という大儀名分で西軍と戦った勤皇の戦いで

ある。最初は「仙台一藩で会津藩を討て」という天皇の勅旨を受けて出陣したが会津藩の降伏謝罪を水面下で交

渉して仙台藩は仲介の労を取っていた。しかし官軍の参謀世良修蔵の強硬な「奥州皆敵」の命令に憤激した奥羽

越33藩が列藩同盟を結成、仙台藩がその盟主となって武士道の義によって徳川幕府江戸追討・会津追討の西

軍と白河口を始め長岡口、秋田口、いわき口、相馬口と各地に転戦、千数百名の戦死者を出しながら武士道に

殉じた。そして仙台藩の降伏謝罪の後も主戦派の幹部や藩士の抵抗は止まず、額兵隊や二関源治の部隊が函館

に渡り函館戦争に参加したのである

 

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ルーマニアの目玉の付いた屋根

 

トランシルヴァニア高原の南端にあるシビウという古都に行った時のこと。この町は中世ヨーロッパ辺境の交

通の要衝として栄えた商業都市であるがこの辺の大きな平屋建ての民家の草ぶきの屋根に目玉が2つずつ付い

ている。よく見ると目のところは窓になっていて屋根裏部屋の明り取りになっているようだ。人間のまぶたと

同じような形で上まぶたが大きく被さっていて窓の存在を隠すように工夫されている。道路を通行していて町

並をみると両側の建物の屋根が全部そうなっていて異様な雰囲気をかもし出している。最初は農家の建物だけ

か思ったのであるが町の中の2〜3階建の建物の屋根もそうなっているのでこれはこの地方の独特な建築様式

なのであろう。 シビウの町の広場には「うそつき橋」という面白い伝説を持った橋がありこの傍に3階建の石

造の建物がある。それの大きな屋根には2段になって5個の目玉が付いていた。(この場合にはガラス窓がそ

のまま見えていた。) 実質的に5階建である。屋根に目玉が付いているなんてぎょっとなる風景である。

日本でもこれは町起こしに利用できるのではないだろうか。 

 

 

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